19世紀末に3B政策を展開した国はどこ?ドイツ帝国の野望と大戦の真相

19世紀末に3B政策を展開した国はどこ?ドイツ帝国の野望と大戦の真相

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ドイツの3B政策が引き起こした最大の地政学的波及効果は、「あり得ないはずだった列強の合従連衡」を実現させてしまった点にあります。

19世紀の長きにわたり、イギリスとロシアは中央アジアや中東で「グレート・ゲーム」と呼ばれる熾烈な覇権争いを繰り広げていました。また、イギリスとフランスも1898年のファショダ事件に見られるようにアフリカで一触即発の危機にありました。ところが、ヴィルヘルム2世の無軌道な世界政策、そして海軍力の大拡張(ティルピッツ計画)と中東への侵食が、これら反目し合っていた3カ国を急速に結びつけたのです。

結果として、1894年の露仏同盟を足がかりに、1904年には英仏協商、1907年には積年の対立を乗り越えた英露協商が締結。ここに「三国協商(イギリス・フランス・ロシア)」の対独包囲網が完成しました。

一方のドイツは、孤立感を深める中でオーストリア=ハンガリー帝国への依存度を高めていきます。これがバルカン半島における民族対立、すなわちスラヴ系民族を後援するロシア(パン・スラヴ主義)と、ゲルマン民族の南進を図るオーストリア・ドイツ連合(パン・ゲルマン主義)の衝突を激化させました。「ヨーロッパの火薬庫」と化したバルカン半島で1914年6月28日にサライェヴォ事件が勃発した際、もはや引き返すブレーキは存在せず、人類初の総力戦へと突き進むことになったのです。

伊藤 翔太
著者

伊藤 翔太

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。