学校教育の現場では「3B政策と3C政策の対立が第一次世界大戦を引き起こした」と平易にまとめられがちですが、開戦に至る構造的なメカニズムはより複雑で危険な火薬庫を抱え込んでいました。鉄道建設それ自体以上に列強を恐慌に陥れたのは、バルカン半島におけるパン・ゲルマン主義とパン・スラヴ主義の対立に、ドイツのインフラ拡張が直接油を注いだ点にあります。
ベルリンからイスタンブールへと鉄路をつなぐためには、同盟国であるオーストリア=ハンガリー帝国を経由し、バルカン半島を通過しなければなりません。オーストリアは1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、南下を目論むスラヴ系民族の統合を目指していました。これに激しく反発したのが、セルビアおよびその背後に控えるロシア帝国です。黒海から地中海への出口であるボスポラス・ダーダネルス海峡の掌握を悲願としていたロシアにとって、海峡の目と鼻の先をドイツの軍事力と鉄道が固める事態は到底容認できるものではありませんでした。
バグダード鉄道の建設経緯を辿ると、ドイツは1899年に敷設の内約を取り付け、1903年に正式な敷設権をオスマン政府から獲得しています。しかし、険峻なトロス山脈のトンネル開削などの難工事に加え、英仏露による金融ボイコットによって建設資金の調達は難航を極めました。イギリスはペルシャ湾沿岸の現地首長(クウェート首長国など)と秘密協定を結んで保護国化し、鉄道の最終目的地となる港湾の接収を先回りして封じ込めるなど、執拗な妨害工作を展開しました。
追いつめられたドイツ指導部は、「周囲を敵対勢力に包囲されている」という極度の被害妄想と危機感を深めていきます。オーストリアを失えば自らの東方戦略が完全に崩壊するという恐怖から、1914年6月28日に発生したサラエボ事件において、ドイツはオーストリアに対して無条件の支援を約束する「白紙小切手」を振り出しました。局地的な暗殺事件がわずか数週間で全世界を巻き込む大動乱へとエスカレートした背景には、中東の鉄路を巡ってあらかじめ張り巡らされていた同盟網の緊張関係が存在していたのです。