智恵子がなぜあれほどまでに安達太良山の空に執着したのか。その背景には、明治・大正という過渡期に「新しい女」として生きようとしたひとりの女性の苛烈な高村智恵子の生涯と挫折の経緯が存在します。
1886年(明治19年)、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の裕福な造り酒屋「米吉酒造」の長女として生まれた智恵子は、日本女子大学校(現・日本女子大学)に進学。当時は極めて珍しかった女性の高等教育を受け、平塚らいてうらが創刊した雑誌『青鞜』の創刊号表紙絵を手がけるなど、新進気鋭の洋画家として脚光を浴びました。
しかし、パリ帰りの天才芸術家であった高村光太郎との結婚生活は、彼女の芸術家としてのアイデンティティを次第に侵食していきます。光太郎の圧倒的な才能を誰よりも理解していた智恵子は、自らの描く油絵に対して極度のスランプに陥りました。「妻」や「芸術家のミューズ(詩神)」としての役割に押し込められる一方、画家としての自立を果たせない苦悩が彼女の魂を苛みます。
さらに追討ちをかけたのが、実家の相次ぐ悲劇でした。父の急死、長年の放漫経営による米吉酒造の破産と身売り、一家の離散。智恵子の精神的支柱であった故郷の原風景は物理的にも失われ、1931年(昭和6年)頃から幻聴や妄想といった統合失調症の兆候が現れ始めます。翌1932年には九十九里海岸で睡眠薬による自殺未遂を引き起こしました。
智恵子にとって、東京の空は「自己の存在を摩耗させ、社会的役割に縛り付ける息苦しい檻」でした。それに対比される阿多多羅山の青い空とは、何者でもない無垢な自分に戻ることができた、記憶の中の純粋な聖域にほかなりません。智恵子抄における「ほんとの空」の理由とは、失われた自己の尊厳と自由への痛切な魂の叫びだったのです。