元治2年(1865年)2月23日、新選組総長・山南敬助は壬生の屯所で自ら刃を腹に突き立てました。享年33。新選組の絶対規律である局中法度において「一、隊ヲ脱スルヲ許サズ」の条項を破った罪による処刑でした。しかし、当時すでに確固たる幹部待遇を受けていた山南が、なぜ逃げ切れるはずもない近場へ姿を消したのか、その山南敬助 脱走 真相には複数の要因が絡み合っています。
最大の火種と目されるのが、新選組 土方歳三 確執です。実務主義・現実主義を徹底し、幕府の治安部隊として冷徹に組織の軍隊化・巨大化を推し進める土方に対し、山南は尊皇攘夷の純粋な志を重んじる儒学者然とした理想主義者でした。池田屋事件を経て隊の規模が急拡大する中、山南は自身の存在意義が形骸化していく焦燥感を募らせていました。
決定打となったのは、壬生屯所から西本願寺への移転問題でした。幕末の不穏な空気が漂う中、長州藩と繋がりの深い西本願寺へ強引に移転を強行しようとする土方や近藤に対し、山南は宗教的聖地への土足での侵入であり、かつ町民への無用な威圧につながるとして猛烈に反対しました。しかし、近藤や土方は山南の意見を退けて移転を決定。さらに組織改編によって山南の権限は実質的に削がれ、総長という地位は名ばかりの「お飾り」へと追いやられていったのです。
近藤勇との関係も変容していました。天然理心流の試衛館時代から寝食を共にし、近藤から深い敬意を払われていた山南でしたが、近藤が幕府要人との接触を深め武士身分への上昇志向を強めるにつれ、二人の思想的距離は修復不能なまでに広がっていきました。山南にとっての脱走は、自己保身の逃亡などではなく、暴走を続ける組織と盟友たちに対する最後の抗議であったと考えられます。