攘夷派とは何だったのか?外国人排除の真相と倒幕へ転じた幕末激動史

攘夷派とは何だったのか?外国人排除の真相と倒幕へ転じた幕末激動史

攘夷派とは何だったのか?外国人排除の真相と倒幕へ転じた幕末激動史について知っておくべき 注意点を分かりやすい構成で解説いたします。

幕末の政治情勢が難解とされる最大の理由は、複数の派閥が複雑に絡み合い、時代とともにその立ち位置を変遷させた点にあります。特に「開国派と攘夷派の対立」という思想的対立軸と、「佐幕派(幕府を支える勢力)と倒幕派(幕府を倒す勢力)」という権力闘争の対立軸が交錯したことで、政局は混迷を極めました。

開国派の代表格である井伊直弼や勝海舟らは、列強との圧倒的な軍事力格差を冷徹に見抜き、「即時交戦は国家滅亡を招く。通商によって国力を蓄え、近代技術を取り入れることが先決」と主張しました。対する初期の攘夷派は「一度条約を結べば国土が侵食される。武力をもって沿岸から異人船を打ち払うべし」という強硬論を展開し、両者は真っ向から衝突しました。主要勢力の主張や実力行使の規模を比較すると、幕末の権力バランスの歪みが鮮明に浮かび上がります。

勢力・区分詳細・数値データ一般的な基準・相場編集部の見解・評価攘夷派下関砲撃事件(1863年)、生麦事件(1862年)など武力行使を実行。志士層の約7割が20〜30代の若手下級武士。外国船打払令(1825年)の復活と即時鎖国を要求観念的な理想主義から出発したが、のちに近代ナショナリズムへ昇華した変革の中核。開国派不平等条約5カ国締結。横浜開港(1859年)後、対英貿易シェアが全体の約80%を占める急激な市場開放。列強との摩擦回避、軍事技術・航海術の導入を優先外交的現実主義を貫いたが、国内世論の統制とインフレ対策に失敗し求心力を喪失。佐幕派(公武合体派含む)会津藩(兵力約5,000)、桑名藩、新選組(最盛期約200名)による京都市中警護と尊攘派弾圧。徳川宗家の政権維持、朝廷と幕府の融和(和宮降嫁など)封建体制の維持に拘泥し、外圧という構造変化への根本的対応が後手に回った。倒幕派薩長同盟(1866年)、戊辰戦争(1868年)。新政府軍兵力約12万を動員して幕府を武力打倒。幕府解体、天皇親政による中央集権国家の樹立敗北した攘夷派が「大政奉還」を梃子に権力を掌握し、明治近代化を主導した。

特筆すべきは、当初「攘夷派=幕府を批判するが必ずしも倒幕ではない」という立場だった勢力が、幕府の優柔不断な外交姿勢に絶望した結果、一気に「倒幕派」へと合流していったダイナミズムです。敵対していた開国論と攘夷論は、最終的に「幕府を倒して強力な統一国家を造り、欧米列強と対等に渡り合う」という大目標のもとで統合されていきました。

石川 優花
著者

石川 優花

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。