【真相検証】水戸黄門と光圀の違いとは?破天荒な生涯とラーメン秘話

【真相検証】水戸黄門と光圀の違いとは?破天荒な生涯とラーメン秘話

【真相検証】水戸黄門と光圀の違いとは?破天荒な生涯とラーメン秘話とはどんな影響があるのか? 主要なファクトを簡潔に解説します。

徳川光圀が後世の日本史に残した最大のモニュメントは、明暦3年(1657年)に編纂を開始した長大な歴史書『大日本史』全397巻の編纂事業です。当時29歳だった光圀が、江戸駒込の別邸に「史局(のちの彰考館)」を創設してから、最終的に全巻が完成して明治39年(1906年)に明治天皇へ献上されるまで、実に249年もの月日を要しました。

神武天皇から後小松天皇に至る皇室の歴史を、中国の司馬遷『史記』に倣った「紀伝体(本紀と列伝を主軸とする記述形式)」で記したこの史書は、日本の正統な歴史観を確立しようとする前代未聞の試みでした。光圀が掲げた「大義名分論」と「天皇を尊び敬う精神」は、やがて水戸学として成熟し、幕末の尊王攘夷運動、ひいては明治維新を動かす強烈な思想的起爆剤となっていきます。

元禄3年(1690年)、63歳を迎えた光圀は藩主の座を甥の綱條に譲り、自らは常陸太田の山あいに構えた簡素な隠居所「西山荘(せいざんそう)」へと退きました。茅葺き平屋建ての質素極まりない庵で、光圀は華美な大名生活を捨て去り、晴耕雨読の生活を送りながら『大日本史』の校訂作業に情熱を注ぎ込みました。

西山荘時代の光圀が残したとされる言葉には、現代を生きる私たちの胸にも深く刺さる警句が数多くあります。

「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」
苦労を避けて安楽に溺れれば将来の苦しみを招き、目の前の困難に誠実に向き合って努力を重ねれば、やがて真の幸福へと結実するという真理を説いた至言です。また、為政者としての心構えとして「民を親と思い、子と思う慈しみの心を持たねば、仁政を行うことはできぬ」と語り、農民の重税軽減や間引き(嬰児殺害)の禁止、飲料水を確保するための笠原水道の建設など、民衆の生命を守る施策を次々と断行しました。

そして元禄13年(1700年)12月6日、光圀は西山荘にて73年の生涯を閉じました。巷間では「第5代将軍・徳川綱吉の生類憐れみの令に激怒して犬の皮を送りつけたため、幕府に毒殺された」というセンセーショナルな暗殺説が語られることもありますが、当時の侍医の記録や病状経過を検証すると、死因の真相は「食道がん」あるいは重度の「胃潰瘍・胃がん」による衰弱死であることが医学的見地から判明しています。数カ月前から食事が喉を通らなくなり、激しい胸の痛みに耐えながら、息を引き取る直前まで歴史書の原稿に目を通し続けた壮絶な最期でした。

鈴木 陽菜
著者

鈴木 陽菜

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