インターネット上の掲示板や歴史ミステリー好きの間で定期的に浮上するのが、写楽と歌麿の同一人物説です。昭和から平成にかけて一部の作家や研究者が「歌麿が自身のスランプを打破するために別名義で描いたのではないか」「蔦重自身が描いたのではないか」という仮説を唱え、ドラマや小説の題材としても繰り返し消費されてきました。
しかし、浮世絵の専門家や美術史学会において、この説は学術的に明確に否定されています。その論拠は主に以下の3点に集約されます。
- 描線と解剖学的デッサンの乖離:歌麿は骨格や筋肉の付き方を熟知した流麗で均整の取れた描線を得意としますが、写楽のデッサンは能の所作や型を意識した独特の歪みを持っており、手の描写(極端に小さな指先や角張った関節)の癖がまったく一致しません。
- 制作スケジュールの物理的不可能性:写楽が怒涛の勢いで140点もの版下を描き上げていた寛政6年、歌麿自身も自身の工房で膨大な数の美人画大首絵(『歌撰恋之部』など最高傑作とされるシリーズ)を並行して発表し続けており、一人で両方の制作をこなすことは工房の規模から見ても物理的に不可能です。
- 版木・摺師への指示系統の断絶:現存する版木や初摺の検証から、写楽の作品は彫師や摺師に対する注文の出し方が極めて特殊であり、手慣れた歌麿のプロデュースラインとは制作現場の運用が異なっていたことが判明しています。
「歌麿=写楽」という言説は、物語としては極めて魅力的なフィクションです。しかし歴史の現実は、百戦錬磨のエース(歌麿)と、異業種から突如ヘッドハンティングされた特異な才能(斎藤十郎兵衛=写楽)という、版元・蔦屋重三郎をハブにした別々のクリエイターによる競演だったのです。