作中で描かれた「ラッコ肉の媚薬効果」は、単なる原作者の奇抜な思いつきではありません。本作の大きな魅力であるアイヌ文化への綿密な取材と民俗学的知見が土台にあります。
アイヌ民族の口承文芸(ユーカラ等)や民話において、ラッコ(アイヌ語でrakko)は非常に神秘的な海獣として扱われてきました。上質な毛皮は松前藩や清国との交易で最も重宝された最高級品であり、乱獲を防ぐための戒めや、ラッコの霊力にまつわる多様な逸話が存在します。その中に「煮炊きする匂いが強烈で人を惑わす」といった伝承が含まれており、野田サトル氏はこれを作劇上のダイナミックなエンターテインメントへと見事に再構築したのです。
では、現代における実際のラッコ肉の味や匂いはどうなのでしょうか。
学術報告や海洋動物の食文化研究資料によると、海獣類の肉は一般的な牛豚や鶏肉とは根本的に異なります。ラッコをはじめとする海棲哺乳類は、極寒の海に適応するため厚い皮下脂肪と、酸素を大量に蓄えるミオグロビンを筋肉中に豊富に保持しています。そのため、肉を煮込むと特有の強い脂臭と濃厚な鉄分(血生臭さ)の匂いが立ち込めるのが特徴です。
決して現代の香水のような甘い香りではなく、野生味あふれる重厚な獣臭であるにもかかわらず、それが閉ざされた極限空間で男たちの脳内麻痺と興奮を誘発したという描写は、極めて説得力のあるフィクションの味付けといえます。