信長が楽市令を発布するより二十年近く前、すでにそのプロトタイプを稼働させていた武将が存在する。近江の有力大名・六角定頼だ。天文18年(1549年)、定頼は居城である観音寺城の城下町・石寺において、商業活動の自由化を認める先駆的な政策を断行した。商人を城下に誘致し、流通の結節点を掌握することで軍事・経済の主導権を握るという構想は、定頼の手によってすでに完成の域に達していたのである。
日本中世経済史の研究者たちが指摘するように、信長はゼロから車輪を再発明したわけではない。彼は先行する六角氏のシステムを冷徹に分析し、自身の領国拡大に合わせてより過激かつ大規模にアップデートした「優れた模倣者であり、徹底的な実装者」だった。戦国時代 (日本) における先進地であった近江の経済インフラを接収した信長は、先人の実験結果を糧にして自らの覇業をブーストさせたにすぎない。