世界的演出家である蜷川幸雄監督が、なぜ若手作家の過激な青春小説の映画化に挑んだのか。その根底には、既成の道徳や安全圏に安住する大人社会への怒りと、傷つくことを恐れずに生きる若者への深いシンパシーがありました。
現場での演出は熾烈を極めました。吉高由里子に対して妥協を許さず、感情が偽物に見えた瞬間には容赦のない激怒が飛んだと伝えられています。しかしそれは理不尽な圧力ではなく、演者の防衛本能を脱ぎ捨てさせ、人間としてのコアを露出させるための演出技法でした。監督自身、後に「吉高は芝居の技術で泣くのではなく、魂の底から感情を引っ張り出せる稀有な表現者だった」と惜しみない賛辞を送っています。
また、過激な性描写を撮影するにあたっては、最小限のスタッフのみをスタジオに残す「クローズドセット」が徹底され、俳優たちの精神的負担を軽減しつつ極限の集中状態を維持する環境が整えられました。痛覚や官能の極致を通じて生を描き切るという蜷川美学の結晶が、あの生々しくも美しい濡れ場シーンだったのです。