なぜ区立の専門美術館でありながら、常設展において複製が多用されているのでしょうか。ここには、美術品保存学における厳格な国際基準と、江戸時代の和紙・植物性顔料が抱えるデリケートな物理的制約が深く関わっています。
葛飾北斎が遺した浮世絵版画や肉筆画は、紫外線や照明光、湿度変化に極めて脆弱です。文化庁のガイドラインおよび博物館展示基準では、照度を50〜100ルクス程度に制限した上で、年間の公開日数を年間30〜60日程度(最長でも通算2ヶ月以内)に厳密に制限することが義務付けられています。もし代表作である葛飾北斎 富嶽三十六景のオリジナルを常時展示し続ければ、わずか数年で顔料のプルシアンブルーやベニバナ赤は退色し、取り返しのつかない劣化を招いてしまいます。
すみだ北斎美術館のキュレーター陣は、作品の恒久的な保存と「いつでも誰もが北斎の全生涯を学べる場」という教育普及目的を両立させるため、常設展にあえて精巧な高精細複製とインタラクティブタッチパネルを導入する決断を下しました。一方で、企画展(特別展)においては国内外から集められた極めて貴重な本物の名品・肉筆画が惜しげもなく公開されています。つまり、「本物を見たいなら企画展開催時を狙う」「常設展は北斎の生涯と技法の全貌を学ぶガイダンス空間と割り切る」という鑑賞側のリテラシーが求められる仕組みになっているのです。