瀬島を語る上で避けて通れない最大のミステリーが、長期におよぶ抑留生活の実態と、根強く囁かれたスパイ説の真相です。関東軍総司令官の山田乙三大将ら高級将官が早期に帰国したのに対し、一参謀であった瀬島はなぜ11年もの長期にわたり抑留されたのか、長年疑問視されてきました。
疑惑が一気に表面化したのは、1982年に起きた元KGB将校スタニスラフ・レフチェンコによる亡命事件です。レフチェンコは米議会証言などで「日本政財界に浸透したソ連のエージェント『セドフ』が存在する」と証言し、その正体が瀬島ではないかとの観測が内外メディアを駆け巡りました。また、1946年に東京裁判(極東国際軍事裁判)へソ連側証人として極秘裏に出廷させられ、日本軍の侵略計画を裏付ける証言を行った点も、保身のための密約疑惑として取り沙汰されました。
冷戦終結後にロシア側から公開された旧ソ連の内務人民委員部(NKVD)やKGB関連の機密公文書を分析した歴史研究者らの見解は、単純な二元論ではありません。公式文書の中に、瀬島が確定的な「工作員(エージェント)」として誓約書に署名した直接証拠は確認されておらず、単に情報を一方的に流す協力者だったとは断定できません。しかし、収容所内での反動分子教化プログラムへの関与や、ソ連側当局者との駆け引きの中で、生き残りを賭けた高度な情報戦を展開していた形跡は随所に見受けられます。純然たる売国スパイというよりは、極限状態を切り抜けるために培った卓越した謀略能力が、疑惑の影を生み出したと言えます。