「なぜ県名と同じ都市にしなかったのか」という疑問には、日本近代史のダイナミズムが凝縮されています。公文書や地方行政史の記録を紐解くと、主に3つの構造的要因が浮き彫りになります。
1. 戊辰戦争における「勝者と敗者」の政治的ペナルティ説
戦後長らく民間や一部の歴史談義で語られてきたのが「明治政府に反抗した旧幕府側・佐幕派の藩は、藩名を県名から抹消され、郡名などの別の名称をつけられた」という懲罰説です。
例えば、会津藩のあった福島県、南部藩の岩手県、庄内藩の山形県、徳川御三家の茨城県(水戸)や愛知県(尾張)などが引き合いに出されます。一方で、薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)、土佐(高知県)といった討幕側の主力を担った藩は、城下町の名称がそのまま県名になっています。学術的には「単なる懲罰ではなく、旧藩主の領主権意識を払拭し中央集権化を進めるための郡名採用策であった」とする見解が有力ですが、当時の生々しい政治的力学が反映されていたことは間違いありません。
2. 廃藩置県と度重なる「府県統合」による中心都市の移動
1871年(明治4年)の廃藩置県当初、日本全国には300を超える府県が林立していました。それが同年末には72府県へ、さらに1876年(明治9年)には38府県へと急速に統廃合が進められました。
この大統合のプロセスで、地理的に旧国の中心に位置する都市や、複数の地域を統括しやすい交通の結節点へ県庁が移転されました。栃木県において、当初の県庁所在地だった栃木町(現・栃木市)から、鉄道網の要衝であり広大な平野部を抱える宇都宮町(現・宇都宮市)へ県庁が移されたのはその代表例です。
3. 近代化を加速させる「港湾機能」と経済基盤の重視
神奈川県(横浜市)や兵庫県(神戸市)が象徴するように、外国船の来航と貿易の拡大に伴い、小さな寒村から一躍メガシティへと変貌した開港地が、政治と経済の心臓部として県庁所在地に指定されました。実利的な経済発展を最優先した明治政府のプラグマティズムが、都市の配置を決定づけたのです。