出浦昌相の真実|真田丸で話題沸騰した最強忍びの壮絶な最期と子孫の系図

出浦昌相の真実|真田丸で話題沸騰した最強忍びの壮絶な最期と子孫の系図

出浦昌相の真実|真田丸で話題沸騰した最強忍びの壮絶な最期と子孫の系図の見逃せないポイントを徹底的にカバーしました。

ネット上の検索で頻繁に浮上する「出浦昌相の最期」や「出浦昌相の死因」というキーワード。これらは『真田丸』第31回において、家康暗殺を図って警護兵の槍に刺し貫かれ、瀕死の重傷を負ったショッキングな場面に起因しています。当時、視聴者の間では「出浦様はここで死んでしまったのか?」と悲鳴が上がりました(のちに劇中で一命を取り留め再登場を果たします)。

では、史実における昌相の最期はどうだったのでしょうか。

結論から言えば、昌相は戦乱で命を落としたのではなく、江戸幕府が開かれたあとの元和9年(1623年)に病死し、当時の武将としては極めて長寿である70代後半まで生き抜きました。死因に関する詳細なカルテのような記録は存在しませんが、合戦や暗殺による横死ではなく、老衰および加齢に伴う自然な病没であったことが諸史料で一致しています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、真田家は「犬伏の別れ」によって父・昌幸と次男・信繁が西軍、長男・信之が東軍へと袂を分かちました。このとき昌相は、真田の血脈を守るため徳川方についた真田信之の家老として従軍します。情報戦の達人であった昌相は、東軍優勢の天下の潮流を正確に見定めていたとも言えるでしょう。

昌幸・信繁が高野山へ配流された後も、昌相は信之を懸命に補佐し、松代藩の基盤づくりに尽力。大坂の陣が終結し、乱世が完全に終わりを告げた平和な時代の中で、静かにその波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのです。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。