トルコ共和国の歴史において、アンカラへの遷都は単なる事務的な移転ではなく、国家の消滅を防ぎ近代国家へ生まれ変わるための背水の陣でした。当時のオスマン帝国は第一次世界大戦で敗北し、1920年のセーヴル条約によって国土の大半を英仏伊ギリシャなどの連合国に分割占領される危機に瀕していました。
この国家的危機を救ったのが、後に「トルコの父」と称えられるムスタファ・ケマル・アタテュルクです。彼がオスマン帝国の首都イスタンブールを捨て、アナトリア中央の荒涼とした小都市アンカラを拠点に選んだ背景には、トルコの首都がアンカラの理由を物語る決定的な軍事・政治的必然性がありました。
最大の理由は、海からの攻撃に対する地政学的な脆弱性の排除です。イスタンブールはマルマラ海とボスポラス海峡に面した海洋都市であり、敵国の戦艦や海兵隊によって容易に制海権を握られ、包囲・占領される危険を常に孕んでいました。実際、第一次世界大戦後には連合国軍の軍艦がやすやすとイスタンブールを占領しています。対してアンカラは、周囲を山々に囲まれた標高約900メートルの内陸高地に位置し、強大な海軍力を持つ列強諸国であっても容易には侵攻できない天然の要塞でした。
もう一つの決定的な理由は、旧帝国の腐敗した封建的支配勢力との完全な決別です。イスタンブールにはスルタン(皇帝)や宗教的特権階級が根を張っており、外国勢力に屈服して保身を図る旧体制の空気が充満していました。ケマル・アタテュルクは、政教分離(世俗主義)と近代化に基づく民主的な国民国家を創設するためには、旧帝国の悪習が染みついた古都を捨て、何もない新しい土地で新政府を立ち上げる必要があると判断したのです。
1920年4月にアンカラで「大国民議会」を開設したケマルらは、アナトリアの民衆を統合してトルコ独立戦争を勝利に導きました。そして1923年10月13日、正式にアンカラを首都と定める法律が可決され、同月29日のトルコ共和国の歴史の幕開け(共和国宣言)へとつながっていったのです。