夕木春央氏の名を決定づけたのが、2022年刊行の長編『方舟』です。地下建築に閉じ込められた男女が脱出するためには、誰か1人を犠牲(生贄)にしなければならないという極限状況下で発生する殺人事件を描いた本作は、「このミステリーがすごい!」や「週刊文春ミステリーベスト10」など主要ランキングで上位にランクインし、各界の著名人からも絶賛を浴びました。
読者の間で「ネタバレ厳禁」の輪が広がった最大の要因は、結末に用意された冷酷なまでのどんでん返しにあります。単に犯人を当てるだけでなく、「なぜその犯行手順でなければならなかったのか」という動機と論理が、終盤のたった数ページで美しく、そして残酷に反転します。
続く姉妹作とも呼べる『十戒』でもその切れ味は健在でした。孤島のリゾート施設で「殺人犯を暴いてはならない」という戒律を課された登場人物たちの心理戦と、戒律の盲点を突いた緻密なトリックは、ミステリー考察好きの間で大きな議論を呼びました。極限下における人間のエゴと理性を冷徹に解体する手腕こそ、夕木作品が持つ唯一無二の魔力です。