徳川慶喜終焉の屋敷跡「浮月楼」が今選ばれる理由と最新全貌

徳川慶喜終焉の屋敷跡「浮月楼」が今選ばれる理由と最新全貌

話題沸騰中の 徳川慶喜終焉の屋敷跡「浮月楼」が今選ばれる理由と最新全貌について、多角的な視点をご紹介しています。

浮月楼の歴史を語る上で欠かせないのが、第15代将軍・徳川慶喜公の存在です。1867年の大政奉還、翌1868年の江戸城開城を経て、慶喜公は1869(明治2)年から1888(明治21)年までの約20年間、この駿府(現在の静岡市葵区紺屋町)の屋敷を本拠としました。

当時、慶喜公は政治の表舞台から完全に退き、油絵、写真撮影、狩猟、自転車、囲碁・将棋といった多彩な趣味に没頭しながら、平穏な日々を過ごしたと伝えられています。当時の回顧録や公卿・側近の手記にも「公は静岡の温暖な気候と庭の四季をことのほか愛でられた」との記録が残されており、この地がいかに慶喜公にとって心休まる聖域であったかが窺えます。

慶喜公が現在の静岡市葵区西草深町へと移住した後の1891(明治24)年、元代官屋敷の風情を残すこの地に開かれたのが料亭「浮月楼」です。庭園の作庭を手がけたのは、京都の無鄰菴や平安神宮神苑などを手がけた近代日本庭園の先駆者、7代目小川治兵衛(植治)。富士山の伏流水をたたえる池を中心とした池泉回遊式庭園は、東海道を代表する名園として伊藤博文や井上馨ら明治の元勲たちにも深く愛されました。

吉田 誠
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吉田 誠

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