日本語における「水の都(水都=すいと)」という言葉の成り立ちを紐解くと、その発祥は古代日本の中心地であった難波宮(なにわのみや・現在の大阪市中央区付近)に行き着きます。古代の上町台地周辺は三方を海と河川に囲まれた天然の良港「難波津(なにわづ)」を擁し、瀬戸内海航路の起点として九州や中国大陸、朝鮮半島との外交・交易の玄関口となっていました。水を通じて新しい技術や文化が日本国内へ持ち込まれたことから、大阪は日本の「水の都」の代表格として位置づけられるようになりました。
中世から近世へと時代が進むにつれ、その機能はさらに強化されます。豊臣秀吉による大坂城築城以降、江戸幕府のもとで道頓堀川や東横堀川、長堀川など無数の掘割(運河)が開削されました。全国各地から米をはじめとする物資が集積する「天下の台所」となった大坂では、縦横に張り巡らされた水路こそが都市の大動脈だったのです。
大坂の繁栄を象徴する言葉に「浪華八百八橋(なにははっぴゃくやばし)」があります。江戸の「八百八町」、京都の「八百八寺」と並び称される表現ですが、江戸時代当時の大坂に実際に808の橋があったわけではありません。幕末の記録によると実数は約200橋でした。特筆すべきは、幕府が経費を出して架けた「公儀橋」はわずか12橋に過ぎず、残りの大半は商業活動の利便性を高めるために商人や町人たちが自費で架けた「町橋(町人橋)」だった点です。官主導ではなく町衆の経済力と知恵によって水辺のインフラが築かれた歴史こそ、大阪が名実ともに水の都と呼ばれる最大の理由といえます。