「扇の的」が繰り広げられたのは、源平合戦の天王山の一つである「屋島の戦い」(現在の香川県高松市)です。背後の山から奇襲をかけた源義経軍に対し、海上に逃れた平家軍は船上から対峙しました。日没が近づき、互いに決定打を欠いたまま休戦状態に入ろうとしたその瞬間、平家側から一艘の美しい小舟が漕ぎ出してきます。
船の中から現れたのは、年齢18〜19歳ほどの際立って美しい女房(官女)。彼女は波に揺れる船の舳先に、日の丸を描いた紅地の扇を立て、手招きをして源氏軍を挑発しました。「この扇を射落としてみよ」という平家からの公然たる挑戦状でした。
扇の的に隠された平家側の軍事的・心理的意図
平家側の狙いは、単なる余興や風流ではありませんでした。当時の戦況は、平家が制海権を握っていたものの、陸上での奇襲によって心理的動揺を強いられていました。波に揺れる不安定な船上の的を射ることは至難の業です。もし源氏の武士が矢を外せば、源氏軍の士気は一気に失墜し、平家軍は嘲笑とともに勢いを取り戻すことができます。つまり、視覚的な美しさを装った極めて高度な心理戦の罠だったのです。
緊迫の人間関係を整理する「登場人物相関図」
この局面における主要人物の思惑と力関係は、次のように複雑に絡み合っていました。
- 源義経(源氏の総大将):平家の挑発を無視することは源氏全体の面目に関わると判断。畠山重忠に射手を命じるも辞退され、弓の名手として知られる那須与一を指名。「外せば生きて帰すな」という無言の威圧をかける。
- 畠山重忠(源氏の有力武将):義経からの指名を受けるが、「外して源氏の名を汚すわけにはいかない」と冷静に辞退し、後輩である那須与一を推挙する。
- 那須与一(下野国の若武者):兄たちを押しのけて抜擢された若手弓取り。辞退を試みるも義経の怒りを買い、成功か死かの二者択一を迫られる。
- 玉虫の前(平家の女房):扇を立てて手招きをする役目を担った絶世の美女。挑発の象徴。
- 平家軍の観衆:源氏の失敗を期待して手拍子を打ち、注視する船上の兵たち。