森稔氏の名を世界の都市計画史に刻み込んだのが、総事業費約2,700億円、区域面積約11ヘクタールに及ぶ「六本木ヒルズ」の開発です。1986年に東京都から「再開発誘導地区」に指定されてから2003年のグランドオープンを迎えるまで、足掛け17年もの歳月を要しました。
開発着手当時の六本木六丁目地区は、狭隘な木造住宅やアパートが密集し、緊急車両も進入できない防災上の脆弱性を抱えたすり鉢状の地形でした。そこに暮らす約400人もの地権者は、先祖伝来の土地を守りたい高齢者や商店主が多く、当初は「大資本による土地の取り上げだ」と猛反発が巻き起こりました。開発反対の旗が掲げられ、怒号が飛び交う説明会が続いたといいます。
森稔氏が取った手法は、強引な立ち退き要求ではなく、徹底した「対話と合意形成」でした。森ビル社員を現地に常駐させ、延べ1,000回を超える住民懇談会を実施。森氏自身も地権者の元へ何度も足を運び、こう訴えかけました。
「私たちは皆様を追い出すために街を造るのではありません。新しい街の住民として一緒に残り、安全で緑豊かな未来の東京を共に創りましょう」
この言葉通り、最終的には地権者の約8割が再開発後の六本木ヒルズに権利変換して住み続けるという、日本の大規模再開発史上類を見ない奇跡的な合意形成を成し遂げました。
この開発を支えた核となる哲学が、森稔氏が提唱した「垂直庭園都市(ヴァーティカル・ガーデンシティ)」構想です。建物を細かく平面的に建てるのではなく、超高層ビルに都市機能を垂直に集約することで地上部に広大なオープンスペースを確保し、そこに緑地や広場、歩行者空間を再生するという思想です。これは建築家ル・コルビュジエの都市計画思想を東京の現場で実装したものであり、「都市を創り、都市を育む」「逃げ出す街から、逃げ込める街へ」という森稔氏の数々の名言に凝縮されています。大地震などの災害時に住民が避難するのではなく、周辺住民を受け入れて自立稼働できる自家発電設備(コジェネレーションシステム)を導入したのも、この思想の具現化でした。
さらに、六本木ヒルズを世界屈指の磁力を持つ街へと昇華させた立役者が、妻である森佳子(もり・よしこ)氏の存在です。商業ビルの最上層には通常、最も高い賃料が見込めるオフィスや高級レストランを配置するのが不動産業界の常識でした。しかし森稔氏は、最上階の53階に現代アートの殿堂である「森美術館」を開設。その館長選びから展覧会のディレクション、文化プログラムの統括を一手に引き受けたのが森佳子氏でした。「文化のない街に人は集まらない」という夫妻の信念は、六本木を「夜の歓楽街」から「世界のアートとビジネスが集結する文化都市」へと完全に塗り替えました。