現代の視点から見ても驚愕に値するのが、晶子の驚異的なバイタリティです。二人の間には計13人の子供が生まれ(2人は夭折、11人が成人)、家計は常に火の車でした。晶子は毎月のように締め切りに追われ、生涯で5万首以上の短歌を詠み、数多くの随筆や評論を発表し続けました。
SNSや近代文学愛好家のコミュニティでは、「鉄幹はヒモ同然だったのではないか」「晶子の自己犠牲の上に成り立っていたのではないか」という厳しい声が散見されます。実際、鉄幹が無収入に近い時期も長く、家計の重圧はほぼすべて晶子の双肩にかかっていました。
しかし、書簡や証言を精査すると、鉄幹はただ無為に過ごしていたわけではありませんでした。晶子の原稿の校正や推敲、版元との交渉、さらには文化学院の創設(1921年)など、裏方として妻の創作環境と教育活動を支えるプロデューサー的役割を晩年まで担っていました。二人の関係は単純な搾取ではなく、創作における「共同事業体」としての側面が極めて強かったのです。