通州事件を理解する上で避けて通れないのが、政治的背景である。当時、北支(現在の中国北部)には日本の影響下で設立された非武装地帯が存在し、そこに樹立されたのが冀東防共自治政府であった。この傀儡政権を率いていたのが、最高首脳である殷汝耕である。
早稲田大学に留学経験をもち、日本人の妻を迎えていた殷汝耕は、親日派の象徴的な人物であった。彼は日本軍の威光を背景に政権を維持しようとしたが、その足元は極めて脆かった。国民政府(南京政府)からの強い圧力と「売国奴」としての批判、そして内部の不満が渦巻く中、政権の支配体制は限界を迎えていたのである。