会津戦争の悲劇を語る際、必ずと言ってよいほど取り沙汰されるのが会津藩の埋葬禁止令の真相です。鶴ヶ城開城後、城下や激戦地に散らばった数千の会津藩士の遺体に対し、新政府軍が「賊軍の遺体を埋葬することは相成らん」と厳命を下し、カラスや野犬の餌になるまで放置を強いたという逸話は、長年にわたり薩長の冷酷残虐さを示す象徴とされてきました。
しかし、近年の歴史調査によってこの通説には大きな修正が迫られています。会津若松市史編纂の過程で発見された『戦死屍取仕認向控(せんししかばねとりしらべむきひかえ)』などの一次史料によると、開城直後から新政府軍民政局の指示のもと、地元の町役人や寺院が遺体の収容と埋葬にあたっていた記録が確認されました。つまり、「一切の埋葬を禁じて野ざらしにした」という言説は、後世に生み出された誇張や感情的プロパガンダであった側面が強いことが明らかになったのです。
ただし、これで新政府軍の責任が完全に免責されるわけではありません。混乱した戦場において遺体の回収が大幅に遅れ、異臭や腐敗が進む凄惨な光景が広がっていたのは動かしがたい事実です。さらに、当初は身元を記した墓碑の建立が制限されるなど、敗者に対する屈辱的な処遇が実在したため、民衆の怒りと絶望が「非人道的な埋葬禁止令」という強固な言説へ結晶化していったと分析されています。