高畑勲監督が手掛けたアニメーション映画と、作家・野坂昭如氏が1967年に発表した直木賞受賞作の火垂るの墓 原作とアニメの違いを比較すると、作品が宿す本質的なテーマ性の差異が明確になります。
映画版の清太は、最後まで妹を愛し、守ろうと懸命にもがき続ける理想化された優しい兄として描かれています。しかし、野坂昭如氏が自らの実体験を投影した原作小説は、自己嫌悪と罪悪感に満ちた生々しい「懺悔の文学」でした。著者の実の妹である恵子ちゃん(当時1歳4ヶ月)は、福井県への疎開先で実際に飢餓によって命を落としています。
野坂氏は自著の手記や特番インタビューにおいて、終戦前後の壮絶な記憶を次のように赤裸々に告白しています。
「自分は妹を餓死させた張本人だ。飢えに狂い、配給の大豆を幼い妹に分け与えず、妹が泣き叫ぶと煩さに耐えかねて頭を叩いてしまった。妹の口に入るはずの食べ物を、14歳の自分が横取りして生き延びたという消し去れない罪の意識が、小説を書かせた」
原作における節子の描写は、映画のような愛くるしい仕草ばかりではなく、昼夜を問わず泣き叫び、骨と皮ばかりになって異臭を放つ、飢餓の冷酷な現実が生々しい筆致で叩きつけられています。野坂氏にとって『火垂るの墓』とは、妹を救えなかった自分を小説の中で清太として美化し、同時に死なせることによってしか贖罪を果たすことができなかった、魂の告解であったと言えます。