1926年7月23日午前6時過ぎ、宇都宮刑務所栃木支所の独房内で、金子文子が作業用の真田紐(麻紐)で首を吊って倒れているのが発見されました。行刑当局による検視の結果、金子文子の死因は縊死(自殺)と断定され、享年23という若さで処理されました。しかし、遺体の引き渡しを巡る刑務所側の不審な対応が、直後から「国家による暗殺説」「他殺説」を呼び起こす引き金となりました。
当局は文子の死亡事実を即座に公表せず、秘密裏に所内の墓地に埋葬しようと試みました。これに憤慨した弁護士の布施辰治や同志たちが遺体の引き渡しを強く要求し、掘り起こされた遺体を引き取って東京で仮埋葬を行うという異例の事態に発展したのです。手記に記された強固な生への執着や、獄中での旺盛な執筆意欲を知る関係者にとって、「なぜ今、文子が自ら命を絶たねばならなかったのか」という疑問は拭いがたい不信感として刻まれました。