この五箇条は、最初から完成された理念として天から降ってきたわけではない。越前藩出身の由利公正が起草した原案「議事之体大意」は、極めて実利的な経済感覚と横井小楠の開明思想に貫かれていた。由利の関心は、豪商や列藩から資金と人材を募り、破綻寸前の財政と流通をいかに立て直すかにあった。
そこに手を加えたのが土佐藩の福岡孝弟だ。福岡は公議政体論の信奉者であり、諸侯会同による貴族的な合議制を意図して「列侯会議を興し」という文言を挿入した。これは大名たちの権益を守る色彩が強い修正だった。
この狭い封建的枠組みを打ち破ったのが長州藩の木戸孝允である。木戸は「列侯会議」を「広く会議を興し」へと書き換えた。たった数文字の変更だが、これが持つ政治的意味は計り知れない。諸侯の談合機関から、広く天下の英才を集める国民的合議機関へと解釈の余地を劇的に拡張したのだ。草案をめぐる三者のせめぎ合いは、新政権内の主導権争いそのものだった。