一橋治済が「稀代の黒幕」と呼ばれる最大の理由は、自らは表舞台に一切出ることなく、最高権力者をすげ替えて実権を掌握した権謀術数にあります。治済は宝暦元年(1751年)、8代将軍・徳川吉宗の四男である一橋宗尹(むねただ)の四男として誕生しました。本来であれば将軍継承権から最も遠い位置にいた人物です。
当時の幕政は、10代将軍・徳川家治のもとで側用人から老中へと異例の出世を遂げた田沼意次が全盛期を誇っていました。商業重視の重商主義政策を進める田沼派に対し、治済は当初、融和的な態度を示して長男の豊千代(のちの徳川家斉)を家治の養子に送り込むことに成功します。
しかし、天明3年(1783年)の浅間山大噴火や天明の大飢饉によって世情が混乱すると、治済は反田沼派の急先鋒へと舵を切りました。天明4年(1784年)に田沼意次の嫡男・意知(おきとも)が江戸城内で佐野政言に刃傷・暗殺される事件が発生すると、治済はこの機を逃さず大奥や譜代大名層と連携。失脚へと追い込まれた田沼意次を幕政から完全に排除し、自らの影響力を不動のものにしました。