蘭奢待の歴史を語る上で欠かせないのが、木肌のあちこちに残された「切り取り跡」と、そこに貼られた付箋(付札)の存在です。現物には、「足利義政拝切」「織田信長拝切」「明治十年明治天皇拝切」という3つの明確な記録が残されています。
ここで多くの人が「なぜ天下人たちは、国の至宝をわざわざ削り取って持ち去ったのか?」という疑問を抱きます。単なる香りを嗅ぎたいという個人的な物欲だったのでしょうか。歴史記録をつぶさに検証すると、そこには極めて高度で冷徹な政治的力学が働いていたことが判明します。
正倉院は古来より、天皇の命による許可証(勅許)がなければ開扉を許されない「勅封(ちょくふう)」の厳格な保管庫でした。寺院の僧侶や現地の武士が勝手に中へ入ることは重罪にあたります。つまり、正倉院の扉を開けさせ、中から霊宝である香木を切り取って持ち出す行為は、「朝廷すら自らの意のままに動かせる最高権力者である」という動かぬ証明に他ならなかったのです。
室町幕府の第8代将軍・足利義政は1465(寛正6)年に切り取りを行いました。応仁の乱の直前、幕府の権威が揺らぎ始める中で、自らの文化的高潔さと将軍家の権威を誇示するための行動でした。
そして最もドラマチックなのが、1574(天正2)年、天下布武を掲げて上洛を果たした織田信長による切り取りです。信長は正親町(おおぎまち)天皇に対して正式な勅許を執拗に奏請し、東大寺大仏殿の警備を名目に兵を展開させつつ、極めて厳格な典礼に従って正倉院を開けさせました。切り取られたサイズは「わずか1寸四方(約3センチ角)2個」と伝えられています。
信長はそのうちの1片をすぐさま正親町天皇に献上し、残る1片を細かく分け、茶の湯の盟友である千利休や豪商・今井宗久、村井貞勝といった自らの政権を支える要人たちへ分け与えました。これは「信長に従えば、天皇の宝物すら分け与えられる」という究極の恩賞システムであり、視覚化された権力の分配だったのです。
時代が下った1877(明治10)年、明治天皇もまた奈良行幸の折に蘭奢待を切り取らせました。同行した内務卿・大久保利通らの前で、その場で一片が焚かれ、芳香を楽しまれたと公式記録に残されています。武家政権から再び天皇親政へと日本が生まれ変わったことを、正倉院の香木を通じて宣言する歴史的儀礼でした。