宮沢りえの半生において、今なお最大のミステリーとして語り継がれるのが、1992年秋に発表された大相撲の花形力士・貴乃花(当時・貴花田)との婚約と、わずか2か月後の白紙撤回劇です。
当時19歳の宮沢りえと20歳の貴花田による婚約発表会見は「世紀のカップル誕生」として日本中を熱狂の渦に巻き込みました。最高視聴率を塗り替え、列島が慶事に沸く中、水面下で強硬に反対の姿勢を崩さなかったのが母・光子氏でした。当時のワイドショーは「りえママの横やり」「金の卵を手放したくない母親の利己的な策略」と激しいバッシングを浴びせました。
しかし、当時の関係者の綿密な証言録を再検証すると、破談の動機は単純な金銭欲や独占欲にとどまらない、構造的な現実問題が横たわっていたことが浮き彫りになります。
伝統と格式を重んじる相撲界において、横綱を目指す力士の妻になるということは、将来的に「部屋のおかみさん」として自らのキャリアを完全に捨て、師匠や弟子たち、後援会への滅私奉公を強いられることを意味します。当時、女優として世界的な評価を獲得しつつあった最愛の娘が、20歳そこそこで芸能界から引退し、閉鎖的なしきたりに縛られる未来に対し、光子氏は強い危機感を抱いていました。
また、破局当夜の生々しい証言として、光子氏から娘の説得を依頼された歌手の美川憲一氏が「あんたも母一人子一人。(相撲部屋の)おかみさんになったら、お母さんどうするの?」と語りかけたという記録が残されています。破局会見の夜、光子氏は水泳界のスターであり親交の深かった木原光知子氏らとともにりえの自宅に詰め、泣き崩れる愛娘を深夜まで抱きしめ、励まし続けました。世間が面白おかしく消費した「冷徹なステージママ」のイメージの裏には、娘の人生の可能性を奪わせまいと孤立無援で抗った母親の苦悩が存在していたのです。