国語辞典を開くと、「輪をかける」の第一義には「ある状態の程度がさらに甚だしくなる。一段と度合いを強める」と記されています。しかし、ここで見落としてはならないのが、この言葉が背負ってきた歴史的な文脈です。
国立国語研究所や主要な中型国語辞典の編纂方針を確認すると、伝統的な用例の約8割以上が否定的な文脈に集中しています。「悪天候に輪をかけて交通網が麻痺した」「彼の頑固さには輪をかけて手におえない」といった使われ方が本来の王道でした。つまり、ただ程度が増すのではなく、「もともと際立って悪かった状態が、さらに一段と酷くなる」というニュアンスを色濃く帯びています。
では、「輪をかけて美人になった」「輪をかけて業績が伸びた」といった好意的な表現は、完全な間違いなのでしょうか。現代の辞書事情に詳しいベテラン校閲記者は、近年の変化を次のように指摘します。
「『三省堂国語辞典』などの現代語に強い辞書では、良い意味での使用も認める記述が増えています。しかし、言葉を受け取る側の40代から60代以上の世代では、依然として『輪をかけて=悪い意味』という語感が強固に残っています。褒めたつもりでも、『以前はそこまで良くなかったと当てこすられた』と心理的バウンダリーを侵害されたように感じる受け手が存在する点に、最大の落とし穴があります」