中山忍さんと姉・美穂さんの幼少期は、絵に描いたような順風満帆な家庭とは程遠いものでした。彼女たちの生家である中山家の実家がたどった経緯は、まさに昭和の母子家庭が直面した過酷な現実を象徴しています。
父親との離婚理由は、価値観の不一致や家庭内の不和であったと関係者の証言で語られていますが、父親が家を出た後、家庭環境は一変しました。母親一人の収入で3人の子ども(美穂さん、忍さん、そして弟)を養うことは困難を極め、家計は常に逼迫。母親が深夜まで働かなければならなかったため、姉の美穂さんが幼くして母親代わりを務め、妹の忍さんや弟の食事の世話、身の回りの面倒を見ていました。
さらに深刻だったのは、住居の不安定さでした。家賃の支払いや生活の行き詰まりから頻繁な転居を余儀なくされ、時には子どもたちだけで親戚の家や知人宅に預けられることもありました。秋田県や長野県など、母の手元を離れて見知らぬ土地の親族に身を寄せた日々は、幼い姉妹の心に深い孤独の影を落としました。中山忍さんは後年の対談で「お姉ちゃんの後ろをいつも追いかけていた」「姉がいたからこそ耐えられた」と述顧しており、過酷な母子家庭エピソードの裏には、幼い姉妹が手を取り合って支え合わざるを得なかった切実な背景がありました。