天正5年(1577年)10月、大和国(現在の奈良県)の信貴山城で繰り広げられた「信貴山城の戦い」は、松永久秀の最期を飾る歴史的舞台となりました。かつて織田信長に臣従していた久秀ですが、上杉謙信や毛利輝元、本願寺勢力による「第三次信長包囲網」に呼応し、突如として織田信長を裏切り戦端を開きます。
信長は久秀が所有する天下の名器「古天明平蜘蛛」を差し出せば降伏を許すという破格の条件を提示したと伝えられますが、久秀はこれを頑なに拒絶。織田信忠率いる4万の大軍に城を包囲され、落城必至となった10月10日、久秀は平蜘蛛茶釜とともに天守に火を放ち自害しました。これが後世に語り継がれる「平蜘蛛爆死」のプロットです。
しかし、当時の一次史料を精査すると爆死の史実性は完全に否定されます。織田信長の一代記である太田牛一の『信長公記』には、久秀が切腹を遂げた後、家臣に命じて自らの首を焼かせ、城に火を放ったと記されています。火薬を抱えて木っ端微塵に吹き飛んだという事実は記録されておらず、史実における松永久秀の死因は、武士として誇り高き「切腹による自害」であったことが確認されています。
では、肝心の平蜘蛛茶釜の真相はどうだったのでしょうか。軍記物のように粉々に砕け散ったのか、あるいは火災の中で失われたのかについては諸説あります。後世には「破片が集められて復元された」という伝承や、静岡県浜松市の博物館(西見寺所蔵)に伝わる「平蜘蛛とされる茶釜」など、複数の逸話が存在しており、歴史のロマンとして今なお多くの研究者や愛好家の知的好奇心を刺激しています。