「この人のおかげで今の自分がある。口先だけではなく、自分の手で書いた文字で、妻に心からの感謝を伝えたい」――その純粋な一念が、64歳になった保さんを奈良市立春日中学校夜間学級(夜間中学)の門へと向かわせました。
若い頃に教育を受けられなかった高齢者や、様々な事情を抱えた外国籍の生徒が集まる夜間中学で、保さんは鉛筆の正しい持ち方から始めました。すし職人として固く握り慣れた指先は、細い鉛筆を持つと思うように動かず、最初は「あいうえお」の一文字を書くだけで指が激しく攣り、腱鞘炎になりそうな痛みに見舞われました。
それでも彼は諦めませんでした。深夜まで自宅の机に向かい、真っ黒になるまで大学ノートを文字で埋め尽くしました。平仮名を覚え、片仮名を学び、少しずつ漢字の練習を重ねる日々。そうして入学から数年後、結婚35年目の節目の日に、保さんは妻・皎子さんに向けて1通の手紙を書き上げました。不器用ながらも力強い筆致で便箋いっぱいに綴られた感謝と愛の言葉。これこそが、のちに日本中を涙の渦に巻き込むことになる「35年目のラブレター」でした。
この感動の実話はまず関西ローカルのニュースで紹介され、その後NHKのドキュメンタリー番組や全国ネットの情報番組で大々的に特集されました。さらに毎日新聞論説委員の小倉孝保氏による入念な取材のもと、ノンフィクション書籍『35年目のラブレター』として出版されると、瞬く間にベストセラーを記録。活字離れが叫ばれる現代において、手書き文字が宿す圧倒的な体温と魂の叫びが、多くの読者の心を強く揺さぶりました。