戦争の混乱と国家暴力を生き延びた李承晩でしたが、その独裁体制は長くは続きませんでした。彼を権力の座から引きずり下ろしたのは、他ならぬ韓国の若き学生たちと一般市民でした。失脚の引き金となったのが、1960年3月15日に実施された第4代大統領選挙、いわゆる「3・15不正選挙」です。
当時すでに85歳に達していた李承晩は、終身大統領の座を狙っていました。さらに自らの健康不安を考慮し、後継者と目された腹心の李起鵬(イ・ギブン)を副大統領に当選させるため、内務省や警察を総動員した空前絶後の不正工作を画策したのです。行われた手口は露骨を極めました。
- 投票箱の4割に李承晩票をあらかじめ詰め込んでおく「事前投票」
- 有権者を3人組や9人組に編成し、警察立ち会いのもとで投票させる「公開投票」
- 野党の立ち会い人を暴力団を使って投票所から力づくで排除
- 夜間の停電に乗じた投票箱のまるごとすり替え
この不正により、李承晩は得票率100%近い異常な数値を叩き出し、副大統領候補の李起鵬も当選を確実にしました。しかし、あまりの露骨さに国民の我慢は限界に達しました。慶尚南道の馬山(マサン)で抗議デモが発生すると、警察はデモ隊に向かって実弾を発砲。そして数週間後、信じがたい光景が国民を震撼させます。行方不明になっていた当時高校生の金朱烈(キム・ジュヨル)君の遺体が、催涙弾を目に突き刺された状態で馬山の海に浮かび上がったのです。
この凄惨な遺体の写真が報道されるや否や、怒りの炎は全国へ瞬く間に燃え広がりました。1960年4月19日、ソウルを中心に数万人の大学生・高校生が青瓦台(当時は景武台)前へ押し寄せ、独裁打倒を叫びました。これが「四月革命(4・19革命)」です。大統領警備隊と警察は民衆に向けて無差別に発砲し、死者100名以上、負傷者数千名を出す大流血の惨劇となりました。しかし、市民の怒りは収まるどころか大学教授団までもがデモに合流し、軍部も「民衆に銃は向けられない」と戒厳令下の発砲命令を拒否しました。
ここで決定打となったのが、長年李承晩を庇護してきたアメリカ政府の「見限り」でした。冷戦下とはいえ、白昼堂々と学生を虐殺する李承晩政権の蛮行は、アメリカにとってもはや擁護できない重荷となっていました。マッカナギー駐韓米大使が大統領官邸に乗り込み、李承晩に対して強い口調で退陣を要求。「国民の信頼を失った指導者は去るべきだ」と最後通告を突きつけたのです。
四面楚歌に陥った李承晩は、4月26日、ついに「国民が望むなら辞任する」との声明を発表し、下野を余儀なくされました。そして同年5月29日未明、韓国を震撼させる脱出劇が実行されます。国民による弾劾裁判や、虐殺の罪を問われる革命裁判によって処刑されることを恐れた李承晩は、妻フランチェスカとともに米軍の支援を受け、金浦空港から極秘裏にチャーター機で逃亡しました。行き先は、かつて独立運動の拠点としていたアメリカ・ハワイでした。
「すぐに帰国できる」と信じていた李承晩でしたが、韓国国民の処罰感情は凄まじく、二度と祖国の土を踏むことは許されませんでした。ハワイ・ホノルル郊外のマキキ・クリスチャン教会近くの小さな家屋や養老院を転々とし、認知症を患いながら孤独な晩年を過ごした李承晩は、1965年7月19日、90歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。彼が命がけでしがみついた権力は、一握りの亡命生活と引き換えに消え去ったのです。