江戸幕府街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道の五街道など)を舞台に繰り広げられた参勤交代実態は、現代のバカンスとはかけ離れた、軍事演習そのものでした。大名行列人数は藩の石高によって幕府から厳格に定められており、格式を維持するために規定の人数を割り込むことは許されませんでした。
大藩の代表格である加賀藩前田家(102万石)では、最盛期には2000人から4000人規模、幕末の記録でも1000人を超える大部隊が連なりました。中堅の藩であっても数百人、最小規模の小藩ですら数十人から100人前後の従者を率いる義務を負っていました。これだけの大人数が一斉に移動するため、隊列の長さは数キロメートルに達することも珍しくありませんでした。
さらに過酷だったのが参勤交代移動日数の短さです。金沢から江戸までの約480キロメートルを結ぶ加賀藩の旅程は、通常わずか12泊13日前後で踏破されていました。1日の平均移動距離は約35キロから40キロメートルに及びます。現代のフルマラソンに近い距離を、重い装備を身につけた武士や人足たちが毎日歩き続けた計算になります。遠く離れた薩摩藩島津家や熊本藩細川家に至っては、海路と陸路を組み合わせて片道40日から50日以上を費やし、険しい峠越えや天候の急変と格闘しながら江戸を目指しました。
当時の記録に残る藩士の日記には、「連日の強行軍で足の皮がめくれ、夜になっても痛みが引かない」「悪天候で川止め(増水による渡河禁止)に遭い、定められた到着期日に遅れれば幕府からお咎めを受けるため生きた心地がしなかった」という切実な悲鳴が記されています。遅参は藩の存亡に関わる重大な過失とみなされたため、体調不良者が出ても足を止めることは許されず、まさに命がけの行軍が続けられていたのです。