ラストエンペラーとは誰か?愛新覚羅溥儀の波乱万丈な生涯と映画の真実

ラストエンペラーとは誰か?愛新覚羅溥儀の波乱万丈な生涯と映画の真実

ラストエンペラーとは誰か?愛新覚羅溥儀の波乱万丈な生涯と映画の真実とは一体何なのか? 詳しい意味を丁寧に紐解いて紹介します。

満州国崩壊後、1945年8月17日に通化省臨江県の大栗子で退位を宣言した溥儀は、飛行機で日本への亡命を図る途上、瀋陽の飛行場で赤軍(ソ連軍)の空挺部隊に急襲され捕虜となりました。

収容所での生活と「人間への回帰」

ソ連のチタやハバロフスクで5年間の抑留生活を送った後、1950年に中華人民共和国へ身柄を引き渡された溥儀は、撫順戦犯管理所に収監されました。生まれてから一度も自分で服を着たことも、歯ブラシに粉をつけたこともなかった溥儀にとって、収容所生活は言語を絶するカルチャーショックでした。

溥儀は戦犯番号「981」として呼ばれ、衣服の洗濯や裁縫、農作業などの労働を通じて初めて「自立した人間としての生活」を学びました。過酷な自己批判と共産主義教育の過程で、彼は過去の罪行を赤裸々に告白した手記を執筆。これが後に世界的ベストセラーとなる自伝『わが半生』の基礎となりました。

植物園の庭師となったラストエンペラー

1959年12月、建国10周年を記念した毛沢東の特赦令により、溥儀は模範囚として釈放されました。紫禁城を出てから35年、皇帝の座を完全に降りた彼は、中国科学院北京植物園に配属され、温室での水やりや草むしりを担当する月給60元の一市民(労働者)となりました。

1962年には、周恩来首相の計らいにより、北京の看護師であった李淑賢(り・しゅくけん)と結婚。溥儀にとって生涯で5人目の妻であり、初めて皇帝と臣民という身分差のない対等な夫婦関係を築いた女性でした。休日に溥儀が妻を伴って紫禁城を訪れ、かつて自分の家だった宮殿の入場券を自ら買って入場したというエピソードは、現代でも深い感慨を呼ぶ有名な実話です。

激動の結末と現在の墓所

しかし、晩年の平穏は長くは続きませんでした。1966年に毛沢東が発動した文化大革命(文革)の嵐が吹き荒れると、溥儀は「封建王朝の生き残り」「最大の売国奴」として紅衛兵による吊し上げの標的となります。周恩来の秘密裏の保護リストによって命そのものは守られたものの、心身の疲弊は限界に達していました。

1967年10月17日、溥儀は腎臓癌と尿毒症により、北京の協和医院でひっそりと息を引き取りました。享年61。その遺体は即座に火葬され、八宝山革命公墓に安置されましたが、1995年、清朝の歴代皇帝が眠る清西陵に隣接する民間霊園「華龍皇家陵園」に改葬されました。名もなき市民として世を去った溥儀は、死後四半世紀を経てようやく、自らの祖先が眠る土地へと帰り着いたのです。

伊藤 翔太
著者

伊藤 翔太

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。