「ネパール人はありがとうと言わない」という噂は、半分正しく、半分は誤解を含んでいます。正確には「親しい間柄や日常の些細なやり取りで、言語化された感謝を過剰に口にしない」というのが言語人類学的な実態です。
日本や欧米のコミュニケーションでは、家族や親友であっても「塩を取ってくれてありがとう」「ごちそうさま、ありがとう」と逐一言葉を交わすことが礼儀とされます。しかしネパールの伝統社会では、家族や仲間内(イングループ)は運命を共にするひとつの共同体であり、互いに助け合う行為は「当たり前の義務」と見なされます。この親密な関係性の中で「ダンニャバード」を口にすると、「あなたと私の間には、わざわざ改まった礼を言わなければならないほどの心理的距離(壁)がある」という拒絶のニュアンスに転じてしまうのです。
現地ヒマラヤのシェルパ族やカトマンズ盆地のネワール族の家庭を定点観測すると、家族間で料理を配膳された際、無言で頷くか、優しい微笑みを浮かべるだけで会話が進みます。ここで形式的な「ダンニャバード」を挟むことは、家族を「サービスを提供する赤の他人」として扱う無作法と受け取られかねません。言葉を削ぎ落とすこと自体が、強固な信頼と一体感の証左なのです。