1911年に勃発した辛亥革命によって清朝が崩壊し、孫文は中華民国の臨時大総統に就任します。しかし袁世凱との対立により再び権力を追われ、1913年に日本へ再亡命することになりました。この失意の孫文を支えたのが、盟友であり財閥指導者でもあった宋嘉樹の次女、宋慶齢でした。
アメリカ留学から帰国したばかりの知性と情熱を兼ね備えた宋慶齢は、孫文の英語秘書として働き始めます。2人は瞬く間に惹かれ合い、27歳という圧倒的な年齢差や、親友の娘との結婚に対する周囲の猛反発を押し切って、1915年に東京で結婚披露宴を行いました。宋慶齢の父・宋嘉樹は激怒し絶交を宣言したと伝えられていますが、宋慶齢は「革命のために命を捧げる孫文を支えることこそ我が使命」という強固な意志を貫きました。
孫文は宋慶齢との再婚にあたり、郷里の盧慕貞と円満に協議離婚しています。盧慕貞は「私には夫の高度な政治活動を補佐する力はない。彼には新しい時代の伴侶が必要だ」と語り、潔く身を引いたと記録されています。宋慶齢は単なる妻にとどまらず、孫文の政治的遺志を継承し、後に「国母」として中国現代史に君臨することになりました。