日本の歴史において、妾の存在が最も異彩を放ったのが明治時代です。江戸時代までの武家社会では「家督の継承」が最優先課題であり、正妻に男子が生まれない場合の「保険」として側室制度が厳然と機能していました。しかし明治政府が誕生すると、驚くべき法整備が行われます。
1870年(明治3年)に制定された刑法典『新律綱領』において、政府は「妾は妻と同等、二親等の親族」と明記しました。つまり、国家が妾を一夫多妻制の枠組みとして正式に認可し、戸籍にも「妾」と記載できるようにしたのです。当時の政財界の重鎮たち――伊藤博文や渋沢栄一をはじめとする指導者層が公然と妾を持ち、邸宅内外で生活させていたことは歴史的事実として知られています。
しかし、この制度はわずか十数年で崩壊へと向かいます。妾制度が廃止された背景には、主に3つの強烈な社会的・国際的要因がありました。
第1に、欧米列強に対する不平等条約改正の要請です。キリスト教圏の一夫一婦制を文明国の絶対条件とみなす欧米諸国から見れば、妾を法律で認める日本は「野蛮な未開国」と映りました。条約改正を悲願とする明治政府は、西洋諸国に恥じない近代法典の整備を迫られたのです。
第2に、知識人や女性運動家による激しい批判運動です。福沢諭吉は著書『福翁百話』や『新女大学』の中で、「一夫一婦は人道の基本であり、妾を持つ行為は獣に等しい」と痛烈に非難しました。矢嶋楫子らが率いるキリスト教婦人矯風会による一夫一婦制の建白運動も、社会世論を大きく動かしました。
第3に、家庭内における本妻と妾の凄惨な対立です。法的に同等とされたことで、同じ屋敷内に正妻と妾が同居する事例が多発し、嫉妬や家督争いによる家庭崩壊が後を絶ちませんでした。当時の日記や手記には、正妻が味わった筆舌に尽くしがたい屈辱と精神的苦痛が生々しく記録されています。
結果として、1880年(明治13年)制定の旧刑法(1882年施行)で妾の親族関係規定が削除され、1898年(明治31年)の旧民法公布によって日本の法律は「一夫一婦制」を絶対の原則として確立。国家公認の妾制度は名実ともに終焉を迎えました。