元弘3年(1333年)、関東の武家政権は突如として脆くも崩壊した。その直接的な引き金となったのが、幕府の頼みの綱であった重鎮・足利尊氏(当時は高氏)の寝返りと、上野国で挙兵した新田義貞による怒涛の鎌倉侵攻である。
なぜ北条氏は、これほどまでに呆気なく家臣たちに見放されたのか。その根底には、長年にわたる得宗専制政治への御家人たちの強烈な不満と激しい格差があった。北条氏の私的な従者(御内人)が幕府の公的な権力を独占し、名門御家人である足利氏や新田氏のプライドと実利を傷つけ続けた結果、構造的な疲弊が限界に達していたのだ。
足利尊氏の離反は、単なる裏切りではなく、武士階級全体の生存をかけた政治的決断だった。一方、新田義貞の電撃的な鎌倉襲撃は、北条側の防衛線を瞬く間に突破した。高時を中心とする政権中枢は、社会の構造変化と武士たちの怨嗟の声を見誤り、自らが作り上げたシステムの機能不全によって自滅への道を転がり落ちていったのである。