池田恒興の真相|信長の乳兄弟はなぜ小牧長久手で散り子孫は繁栄したか

池田恒興の真相|信長の乳兄弟はなぜ小牧長久手で散り子孫は繁栄したか

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織田政権下の一武将から秀吉政権の最高幹部へと登り詰め、そして長久手で散るまでの恒興の立場を、客観的なデータと当時の勢力図から比較検証します。

時期・契機領地・石高データ軍団内での位置付け歴史的評価と組織力学織田期(花隈城攻略後)
1580年〜1582年摂津尼崎・花隈など
数万石規模信長の直参旗本・方面軍副将格乳兄弟としての絶大な忠誠心と現場指揮力で台頭。荒木村重を追い詰めた立役者。清洲会議〜秀吉連携期
1582年〜1583年美濃大垣城主
約13万石織田家宿老四人衆
親秀吉派の筆頭格山崎の戦いで秀吉に味方し宿老へ。柴田勝家に対抗する東軍の防波堤として重用される。小牧・長久手の戦い
1584年(天正12年)尾張・三河切り取り次第
(尾張一国加増の約束)別動隊(中入り軍)総指揮官
第2軍(約4,000人)犬山城を電撃奪取後、自ら三河奇襲を立案。後述の過信と焦慮が重なり痛恨の壊滅を招く。江戸期(子孫・輝政系)
1600年〜幕末播磨姫路52万石
のち鳥取・岡山各30万石超徳川家親藩格・国持大名
外様屈指の血統門閥長久手での敗死を教訓に、家康の娘婿となった輝政が徳川政権下で超一級の繁栄を確立。
山本 拓海
著者

山本 拓海

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。