「まさかあの人が架空の人物だったとは知らなかった」——。カルチャー史を振り返ると、数千万単位の読者や視聴者が実在を疑わなかったケースは枚挙にいとまがありません。最も象徴的な事例が、名探偵シャーロック・ホームズです。ロンドンのベーカー街221Bには、連載開始から1世紀以上が経過した現在でも、世界中から探偵あての直筆の手紙や助けを求めるファンレターが年間数千件単位で届き続けています。あまりの存在感に、1950年代当時の英国国会議員が「ホームズ卿に爵位を授けるべきではないか」と大真面目に答弁で触れたという逸話すら残されています。
日本国内でも、時代小説の登場人物が歴史の事実として定着した例が後を絶ちません。代表格が『真田十勇士』の猿飛佐助や霧隠才蔵です。大正時代に立川文庫が講談本として大ヒットさせた結果、当時の学童たちの間では「徳川家康をあと一歩まで追い詰めた実在の忍者」として完全に認知され、昭和中期の郷土史本にまで実在の生年や出身地がまことしやかに記載される珍事が起きました。
なぜ、大衆はこれほど簡単に虚構を呑み込んでしまうのでしょうか。認知心理学の観点から観察すると、人間は「具体的な固有名詞(地名や年代)」「感情を揺さぶるエピソード」「権威ある媒体での紹介」という3つのピースが揃った瞬間、批判的思考を停止する傾向があります。物語を真実として受け入れたいという大衆の集団的願望が、架空の人物に骨肉を与え、現実世界へと引きずり出してしまうのです。