この大火において、江戸幕府の権威の象徴であった江戸城天守閣(寛永天守)も猛烈な火炎に包まれて全焼しました。高さ約58メートルを誇った壮麗な天守が崩壊したことは、当時の武士や町民に計り知れない衝撃を与えました。
大火後、直ちに天守再建のための石垣(天守台)が築き直され、木材の調達も進められました。しかし、最終的に再建計画を白紙撤回させた人物が、4代将軍・徳川家綱の叔父であり幕政を主導していた保科正之(会津藩祖)です。
保科正之は幕閣に対し、次のような趣旨の進言を行いました。「天守は戦国時代の遺物であり、城の守りとして実質的な軍事機能は持たない。ただ遠くを眺めるだけの象徴に莫大な金銀と労力を費やすより、その財源をすべて焼け出された被災民の救済と、焼け野原となった江戸の町割復興に充てるべきである」。
この徹底した「民生優先・実利重視」の決断により、幕府は備蓄米の無償放出や大名への復興資金貸付を実行。江戸城天守は以後、幕末に至るまで再建されることはありませんでした。今日、皇居東御苑に残る巨大な天守台は、為政者が虚栄を捨てて民の生活再建を選んだ歴史の証拠でもあります。