金子文子の行動の根底には、幼少期に受けた壮絶な家庭環境と社会的不条理があります。獄中で執筆された自伝『何が私をこうさせたか』には、当時の社会制度がいかに一人の少女を追い詰めたかが克明に綴られています。
横浜の貧民街に生まれた文子は、両親の婚姻届が出されていなかったため「無籍児(戸籍のない子)」として育ちました。父親からは暴力を受け、母親からは育児放棄され、親族間をたらい回しにされる極貧生活を強いられます。9歳のとき、朝鮮の忠清北道に住む父方の祖母に引き取られますが、そこでも待っていたのは苛烈な虐待と召使い以下の過酷な労働でした。
「私は親からも社会からも人間として扱われなかった」という深い絶望は、朝鮮の人々が日本統治下で差別され苦しむ姿と重なり合います。この7年間に及ぶ朝鮮での生活体験が、文子の権力への懐疑心と、抑圧された弱者への強烈な共感を形成する決定打となりました。
帰国後、自活しながら苦学を続けた文子は、社会主義やアナーキズム(無政府主義)思想と出会います。そして1922年、運命の同志である朝鮮人革命家・朴烈と巡り合いました。二人は「互いに同志として対等に生きる」という誓約書を交わし、同棲を開始。思想団体「黒濤会」「不逞社」の活動を通じて、国家体制への直接的な異議申し立てに身を投じていきました。