昭和18年(1943年)4月18日午前、山本五十六長官一行を乗せた木更津海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機2機は、零式艦上戦闘機6機の護衛を伴いラバウルを発進しました。目的地はブーゲンビル島南部のブイン基地。前線の将兵を直接激励するための前線視察でした。しかし、この前線視察計画は事前に米軍の暗号解読班によって完全に察知されていました。
米海軍のニミッツ太平洋艦隊司令長官の命を受け、米陸軍航空軍のP-38ライトニング戦闘機16機が迎撃作戦(ヴェンジェンス作戦)を展開。ブーゲンビル島上空のジャングル低空において、山本長官が搭乗する1番機と、宇垣纏参謀長が搭乗する2番機が急襲されました。1番機は左エンジンから白煙を吹き、激しい炎を上げながらブーゲンビル島ジャングルの密林地帯へと墜落。2番機も海上に不時着水し、宇垣参謀長らは重傷を負いながらも奇跡的に救助されましたが、1番機の生存は絶望視されました。
墜落の一報を受けたラバウルの南東方面艦隊司令部は震撼し、直ちに陸海軍合同の大規模な捜索救難隊を編成しました。墜落地点と目されたモイラ岬付近の熱帯雨林は、道なき道が続く底なしの泥濘とマラリア蚊が群がる過酷な魔境でした。陸軍第十七軍隷下の歩兵第二十三連隊(通称・浜砂中隊)が現地原住民の協力を得て密林の奥深くへと分け入り、墜落から翌日の4月19日午後、濛々たる熱気と焦燥感が立ち込めるなか、ついに海軍甲事件墜落現場が特定されたのです。