映画『千と千尋の神隠し』の制作当時、湯婆婆という強烈なキャラクターのキャスティングは難航を極めていました。油屋を支配する冷徹な経営者でありながら、巨大な赤ん坊「坊」を異常なまでに溺愛する過保護な母親であり、さらに物語終盤で登場する心穏やかな双子の姉・銭婆(ぜにーば)との二役を演じ分けなければならない難役だったためです。
スタジオジブリ関係者や当時の制作記録によると、宮崎駿監督は「単なるステレオタイプの意地悪な魔女にはしたくない」という明確なヴィジョンを持っていました。湯婆婆は理不尽な契約で千尋から名前を奪うものの、「働きたい者には仕事を授ける」という絶対的な筋を通すリアリストでもあります。この複雑な多面性を声だけで成立させられる表現者として選ばれたのが、歌手や舞台女優として確固たる地位を築いていた夏木マリでした。
夏木マリ自身も過去のメディア取材やトーク番組で、宮崎監督から直接「あなたの声が必要です」と熱烈なオファーを受けた際の驚きを明かしています。アフレコ現場では、怒号を響かせる湯婆婆の荒々しいトーンと、慈愛に満ちた銭婆の穏やかな響きを瞬時に切り替える職人技を披露。声優としての専門的なキャリアを本業としていなかったにもかかわらず、その存在感は宮崎監督をして「彼女以外には考えられなかった」と言わしめるほどの決定打となりました。