ネット上のQ&Aサイトなどを見ていると、「顎が外れたけれど、病院に行くのが怖くて一晩様子を見ようと思う」「我慢していれば自然にカクッと戻るのではないか」という書き込みを目にすることがあります。しかし、これは極めて危険な誤解です。
顎関節脱臼を放置することの最大の医学的リスクは、「時間の経過とともに整復難易度が跳ね上がる」点にあります。脱臼直後であれば数秒で整復できた症例であっても、数時間が経過すると咀嚼筋が完全に硬直し、骨同士がガチガチに噛み合ってしまいます。こうなると外来での通常の徒手整復は困難となり、入院のうえで全身麻酔をかけ、筋肉を薬理学的に麻痺させてから整復せざるを得なくなります。さらに数日から数週間放置された陳旧性脱臼(ちんきゅうせいだっきゅう)に至っては、関節の周囲に線維性の癒着が生じ、顎の骨を削ったり靭帯を再建したりする本格的な外科手術が必要になります。
また、行徳さくら歯科口腔外科クリニックの報告でも指摘されている通り、「歯を失った高齢者における脱臼の隠れ放置」は見逃せない社会問題です。歯が揃っている人の場合、噛み合わせの崩壊や激痛で即座に異常に気付きます。しかし、総入れ歯を外している高齢者や、認知症を患っている高齢者は、顎が外れていても噛み合わせの違和感を自覚しにくく、自ら痛みを訴えられないケースが多々あります。
顎が外れた状態が続くと、舌が沈下して気道を狭め、さらには唾液を正常に飲み込めなくなります。口腔内に溜まった唾液や雑菌が気管へ流れ込むことで、重篤な誤嚥性肺炎を誘発し、命に関わる事態へと直結するのです。特別養護老人ホームや在宅介護の現場において、「急に食事が摂れなくなった」「口を半開きにしたままよだれを垂らし続けている」というサインが見られた場合は、真っ先に顎関節脱臼を疑わなければなりません。
もう一つの危険な誤信は、「格闘技の漫画やアクション映画のように、顎を横や下から強く殴打・圧迫すれば元に戻る」という極端な都市伝説です。外力で強引に関節を戻そうとすれば、関節結節を粉砕骨折させたり、頭蓋骨の底(頭蓋底)を突き破って脳神経系に致命的な損傷を与えたりする恐れがあります。物理的な衝撃による自己解決は、百害あって一利なしと断言できます。