なぜこのような極端な飛び地が誕生したのか。その起源は江戸時代から明治初期にかけての土地区分と開墾の歴史にまで遡ります。
かつてこの一帯は武蔵国新座郡片山村(現在の新座市周辺)と、豊島郡大泉村(現在の練馬区大泉周辺)の農民たちが入会地や農地として利用していたエリアでした。江戸時代、大泉村の農民が現在の西大泉町にあたる土地を開墾して農地として所有していたため、周囲が片山村の土地であっても、その区画だけは大泉村の持ち分として扱われていたのです。
明治時代に入り、府県制の導入や郡区町村編制法によって厳密な境界線を引く際、本来であれば錯綜した土地を整理・統合するのが自然でした。しかし、当時の地租改正や住民の所有権確認において、土地の所有者が所属する大泉村(のちの東京府北豊島郡大泉村)の管轄としてそのまま登記されました。その後、1947年に練馬区が板橋区から分区した際もこの地番がそのまま引き継がれ、結果として埼玉県新座市の中に東京都練馬区が孤立して残る形が確定しました。