テレビ関係者やミステリーファンの間で、大牧温泉の名を知らない人はいません。昭和から平成にかけて、民放各局のサスペンスドラマにおいて「完全密室の舞台」として幾度となくロケ地に選定されてきました。船が最終便を出航した後は、警察も犯人も翌朝まで峡谷から出入りできないという極限の設定が、視聴者のサスペンス心理を大いに刺激したのです。
制作関係者の証言によると、ロケハン(現地視察)で監督やプロデューサーが一様に息をのむのが「外界の生活音が完全に遮断された静寂」だといいます。館内に入ると、聞こえるのは庄川峡を渡る風の音と、岩肌を打つ川の流れ、そして源泉が注ぎ込む音だけです。携帯電話の電波が届くようになった現在でも、物理的に「逃げ場がない」というロケーションが醸し出す緊迫感と情緒は、どの温泉街にも真似できない独特の空気を放っています。
館内のロビーには囲炉裏が切られ、歴代のドラマ出演俳優のサインや当時の記念写真が静かに並んでいます。フィクションの世界で描かれた「非日常の緊張感」を味わいながら、実際には極上の安らぎに浸るというギャップが、いまなお全国からサスペンスファンや昭和カルチャー愛好家を引き寄せる強力なマグネットとなっています。