頑固で妥協を許さず、曲がったことに対して雷を落とす姿から、ドイツ語で「雷(Donner)」を意味する「ドンネル先生」と恐れ敬われた北里柴三郎。彼の人生は、既存の巨大権力との戦いの連続でした。
熊本医学校から東京医学校(現・東京大学医学部)へ進んだ北里ですが、当時の主流派閥に迎合することなく、公然と予防医学の重要性を説いて大学幹部と激しく対立します。内務省衛生局に入局後、1885年にドイツへ国費留学し、世界屈指の細菌学者ロベルト・コッホに師事。そこで世界的な成果を挙げ、海外の名だたる大学から破格の待遇で招聘されたにもかかわらず、「祖国の医療近代化のために」とすべてを断って1892年に帰国しました。
しかし、帰国した北里を待っていたのは、東大医学部派閥による冷酷な締め出しでした。国家に尽くそうとする世界的碩学に、研究室はおろか職場すら与えられない理不尽な状況に陥ったのです。この危機を救ったのが、『学問のすすめ』で知られる慶應義塾の創設者・福沢諭吉でした。
北里の窮状を知った福沢は、「日本が世界に誇るべき天才を、派閥争いごときで埋もれさせてはならない」と即断。自らの私財を投じ、東京・芝公園に土地と建物を無償提供して「私立伝染病研究所」を設立させたのです。北里はこの福沢の豪気な恩義を生涯忘れませんでした。後年、福沢が世を去った後、慶應義塾が医学部を新設する際には、初代医学部長として無給で尽力。自らの門下生である北島多四郎や秦佐八郎らを教授陣として送り込み、現在の名門・慶應義塾大学病院の礎を築き上げました。